こんにちは。エバコナのカースです。
エバコナでは去年の終わりから若者集会というものを大体2週間に一度のペースで行っています。若者集会には主にクリスチャンの生徒が参加しているのですが、他にも参加を希望する生徒がいれば自由に参加できるようにしています。内容は大体聖書の中にある物語を一つ読んで、それについて現実社会の中での問題と当てはめて話をし、生徒たちの意見や感想等をディスカッションしたりしています。30分程の短いセッションですが、色々な事に日々悩む思春期の生徒たちの精神面でのサポート、またこのような機会を通して彼の精神的な成長をサポートしていく意味ではじめた試みです。
例えば先月のセッションでは聖書の中の「放蕩息子」の物語について話をしました。このお話はある父親と2人の息子のたとえ話です。一人の息子は真面目に父親の言う事を聞いて父親を助けて堅実に生きるのですが、もう一人の息子は父親に自分の遺産相続分のお金を要求し、そのお金を持って遠くに行き放蕩な生活をしてしまいます。その後放蕩息子はお金を使い果たして、大変な困窮に陥ります。食べ物も無くなり、豚の餌をむさぼる程飢え寸前にまで追い込まれてしまいます。そして、はじめて自分のしたことを深く後悔し、決心をして父親の元に戻り許しを乞います。すると父親は大手をあげて息子の帰還を喜ぶというお話です。その時ずっと忠実を尽くしてきたもう一人の息子はそんな放蕩息子を簡単に許して可愛がる父親に怒ってしまいます。
この物語は一見現実の世界の常識で考えるとおかしいお話に聞こえるかと思います。放蕩息子がそんなに簡単に許されて良いものなのか?ずっと父親に忠実にやってきたもう一人の息子が怒ってしまうのは当然では無いのか?そこで私達は生徒達にお兄さんの気持ち、お父さんの気持ち、放蕩息子の気持ちについてそれぞれ考えてもらいました。みんなお兄さんの気持ちはどちらかというと分かりやすい部分があったようなのですが、放蕩息子の気持ちやお父さんの気持ちも良く考えてみると見えてくるものがあったようです。
それは日々沢山の失敗をしてしまう私達自身、そしてその失敗を許されたいと願う私達の心です。もしも私達が失敗をしたとき、それが絶対に許されないのであったら、それはどれ程苦しい事でしょうか?大きな失敗、小さな失敗、その人の捉え方にもよって様々な失敗があると思いますが、そこに「一生」「絶対に」許されないというレッテルが張られていたとしたらそれ程の苦しみは無いのではないかと思います。そして本当は被害者側にとっても誰かを「絶対に許せない」という事程深い悲しみと苦しみの重荷は無いような気がします。
若者達の多くが自分にまだ自信が無く、失敗を恐れたり、自分のしてしまった過去の失敗を許す事ができず、それを心の中にいつまでも引きずってしまう生徒をよく見かけます。長い人生の中で失敗を誰一人として免れる人などいない事を考えると、この「失敗を通して学ぶ」という考え方がどれ程大切であるか私達大人は分かっているかと思います。
これからも若者集会を通して「失敗を許される」ということについて、「人の過ちを許す」ということについて、そして「社会的責任」とはどういう事なのか等様々な事を共に話し合い考えていきたいと思っています。
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