3人の子供とニュージーランドに移り住んで4年目、私は43歳で再婚した。二ュージーランド人の夫はその時35歳で初婚だった。
学生時代から行動派で理屈っぽかった私は20代後半に平凡で保守的な結婚をしてからも常に現実の向上を目指し、肩を怒らせて独走しがちだった。
塾漬けだった日本の学校教育に疑問を感じ、「窓際のトットちゃん」の黒柳徹子さんが通ったトモエ学園にあこがれ、シュタイナー教育に傾倒し、その結果、結婚13年目にして子供を連れて日本を飛び出したのだが・・・
最初の3年間、私は新天地での理想の実現に燃えて夢中で生活をした。
その新天地、ニュージーランド北島フィティアンガは素晴らしく美しい町だ。ニュージーランド最大の都市オークランドから車で約3時間の距離で、美しい海岸線に面したフィティアンガ周辺は当時から北島でも最高のリゾート地のひとつとされていた。町の海岸線は覚めるようなマリンブルーで、普段は人の住んでない別荘やモーテルが立ち並び、毎年、夏になると町の人口は10倍に膨れ上がる。そんな町に人口過密の東京から私たち親子は一挙に移り住んだのだ。何もかもがあまりにも東京と違うので私たち親子はただただ好奇心でわくわくしていた。
そうして始まった生活だったが、無我夢中のうちにあっという間に時間は過ぎていった。1年目は母子ともに日々英語と格闘しながら学校に通い、友達を作り、仕事を始めた。2年目には居住権を取り、乗馬を習い、馬を買った。3年目は馬を飼う土地を手に入れ、念願の家を建てた。まさに毎日が新鮮な驚きの連続だった。
そして、いつの間にか子供達も英語に不自由しなくなっていて、最初のマイホームも建ったが、気がついてみると私は母子家庭でひどく孤独を感じ始めていた。そんなある日、私の敷地で馬を飼っていた乗馬友達のポーリンがその馬に踏まれて大怪我をした。そのポーリンを救急ヘリコプターで町の大病院に送りこむと私はショックでいたたまれず、話しをする相手が必要だった。その時、たまたま親身になって私の話を聞いてくれたのがボランティアの救急隊員の彼だった。
彼はニュージーランドの片田舎の牧場で生まれ、小さい時から400エーカーの牧場で狩猟や川釣りに明け暮れて育ち、17歳になると大きな町の工房に木工職人として弟子入りし、以来、自活をしてきたといい、私よりも年下にもかかわらず、初めてあった時から老成した感じで、年の差を感じさせなかった。彼の考え方、生き方は自然の中で鍛えられ、シンプルで現実的でまさに地に足がついているようだった。それは都会育ちで頭でっかち、がむしゃらに理想に走ったあげく現実に翻弄されて困惑していた私とは対照的だった。
そうして出会ってから7ヵ月後に私達は結婚した。
結婚式は町の小さな教会で、牧師一人と3人の子供達と立会人になってくれた親しい友人夫婦とで、15分ほどで終わった。夫は綿の柄シャツ、私はポリエステルの着物を着ての式だった。
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