ドイツのシュタイナー教育に共鳴し、日本の学校教育を危惧した私が当時
11歳と9歳と5歳だった子供たちをつれて母子4人でニュージーランドに渡ったのは、忘れもしない1989年10月だった。
私は若いころ一年ほどイギリスで暮らしたことがあり英語が少し話せたので、母子4人で生活するには、英語圏で、安全で、自然の豊かな国、そう思って選んだのがニュージーランドだったが、その国に知人がいたわけでもなし、最初から行く当てはまったく無かった。
それでもともかく最初はニュージーランドと聞けばなににでも出かけて行き情報を集めた。かれこれ2年ぐらいはニュージーランドへの足がかりを模索しただろうか。そんなある日、朝日新聞にニュージーランド北島のフィティアンガという所にある語学学校の記事が載っていた。それは「東京にある私立高校の生徒が毎年、ニュージーランドの美しい海辺の町にある学校で語学研修をしている」というものだった。
「ここだ!」。私の直感が早鐘のようになり始めた。私は早速その学校の校長に手紙を書き、3人の子供をその学校に通わせたいと連絡を取った。するとその校長からすぐに返事が返って来た。それによるとその学校は語学学校で子供向けではないので、母親である私が生徒になって留学すれば、付いてきた子供は現地の小学校に客人として受け入れてもらえるというものだった。(現在はそのシステムはなくなっている)その上、現地の高校では日本語の教師を探しているので、興味があればどうですかというのだ。なんという天の計らい!
そしてなんと語学学校の校長からの返事を受け取った1年後には一家でニュージーランドのフィティアンガにたどり着いていたのだった。当時のフィティアンガの人口は2500人で、町の波止場では潮干狩りができてしまうというほどの環境で、東京から移った私たちには天国のようなところだった。(現在の人口は4000人、環境の素晴らしさは変わらない)
そしてこちらに来て4年後に私はニュージーランド人の夫と再婚した。これもまた私にとっては革命的な人生の転機となった。戦後の高度成長期に、日本の母親中心の家庭で育ち、嫁いだ先でもまったく同じ、育児や子供の教育に夫の役割など望むべくもないと思っていた私が43歳にして初めて、異人の夫を通して父親が子育てに果たす役割を教えられたのだ。
それは決して楽なことではなかった。ニュージーランド人の夫は事あるごとに私の子育てのやり方に異議を申し立てたので、私は理解できずに戸惑い、挙句の果てには口論になった。
しかし16年がたち、子供たちが巣立ってしまった今、その子育てを振り返ってみて、私は子供の教育は学校教育もさることながら、それ以上にしっかりした家庭教育が大事だと思う。そして再婚して図らずも家庭教育における父親の役割を再認識した私は、日本の家庭におけるお父さんの存在をもう一度問い直してみたいと思う。そんなわけでこのシリーズでは私と子どもたちが経験したキーウィー(ニュージーランド人)義父さんとの生活のエピソードまとめてみた。
「親だって間違うことはある。でもその親の確固とした信念を通して子供は学ぶんだ」と私の夫はいう。頑固オヤジ万歳!ニュージーランドにはまだそうしたオヤジが健在なのだ。
コメントを残す