飯島拓也くんはわずか14歳で東京都心部から人口4000人のフィティアンガにあるエバコナに留学してきました。日本ではすでに小学校の頃から学校に馴染めず、学校が好きではなかったそうです。学校での机上の勉強や教えられる理屈や理論に対して「どうしてそうするの?」「なぜそうなるの?」という疑問が常に浮かんでしまい、自分が納得できないうちに授業が進んでしまうため、学校ではまったく勉強についていけなくなってしまいます。まるで走っている車から突き落とされたように、気が付くと学校では自分だけ取り残されてしまったそうです。拓也くんは教科書や本から学ぶのが苦手で、実践的/体験的に物事を学ぶのが得意な少年でした。
学校ではクラスの勉強についていけず、毎日通ってはいたものの学校が面白く無く、そんな状況でご両親とぶつかることも多かったそうです。そんな行き詰まりを感じていた拓也くんは中2の時に思い切ってニュージーランドのエバコナ留学へと踏み出しました。ニュージーランドに来た拓也くんは最初の3か月はまずエバコナの一般英語コースで英語を勉強し、その後で現地中学校に編入することになっていましたが、案の定、エバコナでも初めから教室での英語の勉強をについていけず、全く教室に入ろうとしませんでした。そんな拓也君の様子をしばらく観察していたエバコナの校長マクリーンがゲーム感覚でやれる英語教材をくれ、彼はしばらく自分のペースでそれをやるということも試してみました。そして校長はその時にたまたま日本から来た小学生グループがニュージーランドの小学校体験をするというプログラムに拓也君をかりだしました。そこで拓也君はその日本の小学生グループのリーダー的な仕事をさせてもらい、マクリーン校長も驚くほどのリーダーシップを発揮します。言葉なしでも現地の人となんとかコミュニケーションをとってしまう拓也君を見た校長は彼はは英語力はなくとも生活力があるので直接現地校に入ったほうが良いだろうと判断します。そしてその後すぐ、拓也君は英語力なしのままで中学部に入ることになったそうです。
話せないままで現地中学でもまれた拓也君は後になって、現地校で体得した英語力をもっと体系的に伸ばしたいと思うようになり、再度エバコナに戻り2年ほど一般英語コースで英語力を伸ばしました。その間通信で日本の高卒認定の勉強もし、再度ニュージーランドの高校12年生(日本の高2)に編入します。そこでは得意な実技科目を主に学習し単位を取得します。そして12年生を終了して17歳でオークランドの専門学校に入学、調理の勉強をしてシェフとなりました。
料理は以前から好きだったそうですが、料理をするようになったきっかけはフィティアンガで滞在したホームステイで、自分が食べたいもの(主に日本食)があったら自分で作る環境だったからだそうです。ここに一つ、校長マクリーンにとって忘れられないエピソードがあります。ある日、拓也君は日本のコロッケを作って現地中学校で売ることを考えつきます。そこでホームステイにあったジャガイモを全部ゆでてひき肉と油を使ってをおいしいコロッケをたくさん揚げました。ホスト・マザーが外から帰宅すると家中においしいにおいが漂い、出来立てのコロッケが売りやすいようにきちんと紙に包んであったそうです。
何事にも実践的な体験から学び体得していく拓也くん。エバコナの校長マクリーンは拓也くんの事を振り返って、今でも彼との出会いはとても印象的だったと言います。そして拓也くんは日本では池の中で泳がされていた海の魚だったのかもしれないと。本当は大海で一人でどんどん泳ぐことのできる可能性と独創性を秘めた青年だったのです。それに周りが気付いた時が彼のターイングポイントだったとマクリーンは言います。
シェフになった拓也くんは日本食レストランを皮切りにオークランドのいくつかのレストランでシェフとして働きます。そしてその後大好きな車に関わる仕事をしたいとタイヤ専門店に転職します。この業界でも3年間働き、タイヤの修理、交換から仕入れ等、タイヤビジネスの様々なスキルを学んだそうです。そして仕事をする中で仕入れたタイヤの個数を正確に把握したり記憶する事ができる等、他の人に比べて優れた自分の能力に気が付いたそうです。のちに彼はディスレクシアだと診断されたそうですが、自分の脳が他の人と比べて違う面でとても長けているという事を仕事を通して自覚します。
拓也くんは今次のステップとしてタイヤ業界での経営やマネージメントのほうに進みたいと思っているそうです。20代のはじめに仕事を通してニュージーランドの永住権も取得し、去年結婚もした拓也くん。自分の能力を生かして、自分らしい人生を生きるべくまた新たなステップを今踏み出そうとしています。
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